なにかがちがう

何かが違う。何が違うのか解らない。ただ何かが違う。猛烈に感ずる。一個前のブログを読む。苛まれる。こんな気取った文章を書くコン畜生だったのか。たまらない。そして一回息を吐く。ふう。そして屁をこく。ちょっと、ハバカリへ、失礼。

原因は解っていた。最近、別段の理由もなく、フランスの方へ寄っていた。フーコーとクレジオ。あいつらの写真が妙にイケてて、悔しい、手に取ってしまう。勃起してしまう。ムカついたので、焼却処分をして、そして、えー、ううん、どうしよう。とりあえず谷崎の美食倶楽部を開く。イカン、勃起止まらんちん。閉じる。

どこかのお国のエッセイぶって書く真似っこ動物が跋扈して、結果として何とも名状しがたい謎の文章が出来上がる昨今は、あまりに悲惨である。明治の時代から、いかにして日本語に適した文体が可能なのか、多くの文筆家が模索してきた筈であるのに、それを全く顧みないポストモダニストは、あ、正しいのか。ポストを志向する彼らが、過去を断ち切ろうとするのは真っ当であるから、確かに苦言を呈しても如何ともし難いことであった。問題は、なにゆえ、彼らの取る手段が模倣に過ぎない儘で終わってしまうのかというところかも知れない。しかし今考えるべきは、其れに非ず。我が文体の件である。

而して、数年ぶりに大谷崎文章読本を読みてみるに、かかる我が文が直に叱られている気配ですらある。大事なのは、解ること容易にて、一文に多く意を含ませること、これに尽きる。エンエンと、講釈を垂れるが如く文体は、気取るだけ気取って、殆どその意味を為さない。解ったか!!!

僕はね、でも、人に何か伝えようとか思っとらんに、そんなん言われても、直す気なんかないけん、こんなん書いちゃうよぅ。わはは。あでぃおす。